人道の港 敦賀ムゼウム
- 2023/01/07
- 22:47

敦賀での忘れ物を取りに来た。
人道の港 敦賀ムゼウム。

2年前、福井県敦賀市に来た時、旧の人道ムデウムは金ヶ崎緑地休憩所になっており

こっちの新しい人道ムデウムは完成してなかった。

自由への扉(旧の人道ムデウム横、現在の金ヶ崎緑地休憩所横)。
ひとりの日本人によってユダヤ難民の自由と未来のために開かれた扉だ。

チケット(一般大人ひとり500円)を購入して入館する。

名前「人道の港 敦賀ムゼウム」やったんや、2年前にここの存在を知ってからずっと私の頭の中では「敦賀の港 人道ムデウム」と変換されていた。
ムゼウムとはポーランド語で「資料館」という意味。

足を踏み入れるが、写真撮影は禁止。
本州の日本海側沿岸のほぼ中央に位置する福井県敦賀市は、天然の良港・敦賀港を擁し、古くから大陸との交流拠点として栄えてきました。
明治から昭和初期にかけて、敦賀港はシベリア鉄道を経由してヨーロッパ各都市と日本を結ぶ国際港としての役割を担いました。国際港として発展した敦賀港は、1920年代にロシア革命の動乱によりシベリアで家族を失ったポーランド孤児が、1940年代には杉原千畝氏の発給した「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸した日本で唯一の港であり、当時のまちのひとたちが彼らを温かく迎え入れた「人道の港」としての歴史があります。
これらの歴史を後世に伝える資料館として、平成20年(2008年)3月にオープンした人道の港 敦賀ムゼウムには、開館以降、国内外から多くの方にお越しいただき、ポーランド孤児やユダヤ難民の関係者の皆様とさまざまな交流を深めてまいりました。
そして、ポーランド孤児上陸100周年、命のビザ発給80周年を迎えた令和2年(2020年)11月、展示内容をより充実させ、施設規模を拡大した新たな人道の港 敦賀ムゼウムがリニューアルオープンしました。
新しい建物の外観は、大正から昭和初期に敦賀港にあった敦賀港駅や税関旅具検査所などの4棟の建物を当時の位置に復元し、往時の敦賀港の雰囲気を感じてとっていただけます。また、館内には、関係者から寄贈いただた新資料の展示や、新たにシアターやアニメーション展示を設け、より展示内容を充実させております。
人道の港 敦賀ムゼウムHPより

2階
知るべきことが、ここにある。

撮影可能エリアがあった。

交流コーナー。
ポーランド民族衣装【男女子供用】。

この衣装は、元駐日ポーランド大使館参事官スタニスワフ・フィリペック氏から寄贈していただきました。
フィリペック氏は、大使館勤務時代に阪神・淡路大震災の惨状をみて、多くのポーランド孤児を救ってくれた日本に対する恩返しとして、被災児を慰めるためポーランドに招待することに奔走した中心人物です。(説明書きより)

新たな始まり。

命と平和のメッセージ。

In memory of Antonina

メッセージを書くところ。


1階へ

このエリアも撮影可能。


根井三郎。

杉原千畝が発行した通称「命のビザ」を利用してウラジオストクへ逃れてきたユダヤ難民に対して、在ウラジオストク総領事代理として外務省の訓令に抗議し日本行の船に乗船許可を与えた人物として知られる。
2022年12月8日から2023年2月7日までここ人道の港 敦賀ムゼウムで資料展があるみたいだ。
ポーランドと福田会。

ポーランド共和国。

ポーランドは、日本から直行便で11時間ほどの中央ヨーロッパに位置する共和国です。
約3800万人の人々が生活しており、このうち首都ワルシャワの人口は170万人ほどです。
面積は日本の5分の4程度で、人口の97%が西スラブ系のポーランド人です。
国民の多くがキリスト教(カトリック)を信仰しています。
通貨はズロチ(zł )を使用しており、公用語はポーランド語です。
ポーランドと日本の絆。

ポーランドと日本は、2019年に国交樹立100周年を迎えた長い外交関係にあり、この間お互いに様々な形で助け合いや交流を行ってきました。
その最初の出来事が、シベリア孤児救済事業だと言えるでしょう。

上陸地点。

天国に見えた敦賀のまち。
建物の外観は、大正から昭和初期に敦賀港にあった4棟の建物を当時の位置に復元し、往時の敦賀港の雰囲気を感じることのできるようになっている。

1⃣敦賀税関旅具検査所。

2⃣敦賀港駅。

3⃣大和田回漕部と4⃣旧露国義勇艦隊事務所。

大和田回漕部とは、敦賀へ入港する商船会社の代理店として港の荷捌きなどを行っていたところ。
旧露国義勇艦隊事務所は、敦賀ーウラジオストク間の定期航路を運航した。
人道の港 敦賀ムゼウムを語るとき、よくりんごが出てくる。

敦賀港に到着した船からは、溢れんばかりのユダヤ難民が上陸しました。難民たちは自由の地に上陸した喜びの一方で、ほとんどが十分なお金を持たず、お腹をすかせていました。そんな彼らに、ひとりの少年がリンゴやバナナなどの果物を無償で配っていたそうです。

難民のひとりは数十年ぶりに敦賀を再訪問した時に「リンゴは本当に甘くて、おいしかった」と語っています。
人道の港 敦賀ムゼウムHPより。
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