比叡山延暦寺 横川地区
- 2022/08/31
- 05:42
比叡山延暦寺 横川地区。
「よかわちく」と読む。

比叡山には二度目の訪問だ。
横川地域参拝ご案内。

横川中堂(根本観音堂)、元三大師堂(四季講堂)、恵心堂…
比叡山と各宗祖師。

比叡山延暦寺は、延暦7年(788年)伝教大師最澄上人が国宝的人材の養成と国民の幸福をお祈りする祈願の道場としたことに始まる。
その後、伝教大師のご精神を受け継ぐために幾多の修行僧が籠山修行されたが、特に鎌倉時代の日本仏教各宗派を開いた祖師たちが仏教文化の華をさかせた。
中でも浄土宗の開祖法然上人、浄土真宗の開祖親鸞聖人、臨済宗の開祖栄西禅師、曹洞宗の開祖道元禅師、日蓮宗の開祖日蓮聖人などは、この山で血のにじみでるような命がけの修行の末、自己の信ずる一宗一派を開いた。

殊にこの横川にゆかりの方々は、親鸞聖人、道元禅師、日蓮聖人。
布教伝道絵看板。

道元禅師様ご誕生。

京都周辺道元禅師ご遺蹟。
我らが親鸞聖人。

出家得度。

日蓮聖人ご誕生。
日蓮聖人御霊跡 定光院 徒歩約15分。

前回訪問の時は、時間がなかったのと大雨で横川地区は、駆け回った。
今回は、この定光院まで行ったろう。
こんな案内板ができとる、確か去年来た時にはなかった。

蛇ヶ池。
その昔、この池には大蛇が棲み着いていて、通りがかった村人を襲っては喰っていたそうです。それを知った高僧の秀憲(しゅうけん)は、その大蛇を退治するために蛇ヶ池にやって来ました。
秀憲が池の畔にたたずみ、呪文を唱えると、池の真ん中辺りから、ザバーッと水しぶきを上げて、大蛇が現れました。秀憲は大蛇に向かって、「お前は法力を持っているそうだが、その証拠を私に見せてくれないか」と頼みました。すると、大蛇が「よし、見せてやろう」と答えた途端、雷が鳴り響き、大蛇はみるみる大きくなり、なんと比叡の山を7巻半も出来るぐらいに巨大になったのです。

それには秀憲と言えども、さすがに驚きましたが、すぐに気を取り直して、今度は「ほー、これは噂通りにスゴい!お見事、お見事。では、今度は私のこの手のひらに乗れるほど、小さくなることはできるか?」と言うと、大蛇は「そんなことは容易いこと」と言って、どんどん小さくなり、秀憲が差し出した右の手のひらに乗ってとぐろを巻きました。その瞬間、秀憲は観音様の念力で大蛇を動けないように封じ込めてしまったのです。秀憲の作戦勝ち!見事、大蛇を退治することに成功したのでした。
京都トリビア × Trivia in Kyotoより

鳥居。
蛇ヶ池なのに龍ヶ池八大龍王と書いてある。

関西の主な巡礼地というblogには以下のように書かれていた。
延暦寺古書に曰(いわく) 昔この池に大蛇が住みつき村人達に害を与えていた。
元三(がんざん)大師これを聞き大蛇に向い 「汝―法力を持っていると聞くが
本当か」とおたずねになった。
大蛇は、威猛々に「本当ダ俺に出来ないことは何もない」 と答えました。
大師は 「ナラバ大きい姿になってみよ」と申されると
お安いご用とばかり数十倍の大きさに変身しました。
大師は再び 「デワ小さくなり私の手の平に乗れるか」とのお言葉に
「承知」とばかり小さくなり手の平の中に入りました。
大師がすぐさま観音様の念力により閉じ込めてしまわれました。
そして弁天様をお迎えし、小さくなった大蛇をお渡しになり、
弁天様のお侍いとしてお側に仕えさせて頂きたいとお願いされました。
大蛇も大師に諭され前非を悔い今度は自分の持っている法力を善業に向け
横川の地を訪れる人の道中の安全と心願の成就の助けをしようと大師に誓いました。
以後訪れる人の幸せを願い助力を盡(つ)くしております。
別名 「雨乞いの弁天様」としても有名であります。
しまった、説明の案内板をよく読んでおくんだった。
横川中堂。

舞台造りで全体的に見て船が浮かんでいる姿に見える。

第三番〇〇。

やわらかい目をしていらっしゃる。

参道を上がる。

元三大師道。

元三大師(がんざんだいし)は、僧名を良源(延喜12年9月3日(912年10月15日)~永観3年1月3日(985年1月26日))といい、慈恵と諡する。
正月の3日に亡くなられたことから、元三大師と称されている。
55歳にして第18代天台座主(天台宗の最高の位)に昇り、比叡山の最盛期を築き上げたことから、比叡山中興の祖と仰がれている。
生まれながらにして如意輪観音の化身と仰がれ、今日なお除災招福、五穀豊穣、善願成就を祈る多くの人々より「厄除け大師」、「角大師」として信仰を集めている。

第十番 三室戸。
西国三十三所の石仏群やったんや。

元三大師堂方面に

お大師様の姿を弟子が描き写した「角大師」。

案内板。

道元禅師得度霊跡。
元三大師と角大師の由来。

永観2年(984年)、全国に疫病が流行して、ちまたで疫病の神が徘徊し、多くの人々が、次々と全身を冒されていった。
お大師さまは、この人々の難儀を救おうと、大きな鏡の前に自分のお姿を映されて静かに目を閉じ禅定(座禅)に入られると、お大師さまの姿はだんだんと変わり、骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になられた。見ていた弟子達の中でただ一人明普阿闍梨だけがこのお姿を見事に写しとられた。
お大師さまは、写しとった絵を見て、版木でお札に刷るよう命じられ、自らもお札を開眼された。出来上がったお札を一時も早く人々に配布して各家の戸口に貼りつけるように再び命じられ、病魔退散の実を見事に示されたのであった。やがてこのお札のあるところ病魔は怖れてよりつかず、一切の厄難から逃れることが出来た。以来千余年、このお札を角大師と称し、元三大師の護符として、あらゆる病魔の平癒と厄難の消滅に霊験を顕わし全国的に崇められているのである。
明普阿闍梨は大師さまのお姿を写しとったけど、いなかさんは石の案内板を写しとったぞ。

おみくじ発祥之地。
元三大師さまが観音菩薩さまに祈念し授かった五言四句の偈文(げもん)百枚がおみくじの原型だと言われている。
元三大師さまは、百枚の偈文の中から引いた一枚に進むべき道を読み取り数多くの人を迷いから救ったそうだ。

元三大師堂(四季講堂)。

元三大師さまが住房として修業に学問の研鑚に努められたお堂で、その元三大師さまをご本尊としてお祀りしている。

宝篋印塔。
箸塚辨戝天。

元三大師良源(慈恵)が千僧供養を行った際に、使われた箸をこの地に埋め弁財天を祀ったのが始まりとされている。
比叡山行院。

天台宗修行道場。
その向かい側には甘露山王社。

お寺の中に神社がいっぱいでてきて、訳わかめ。

地蔵堂。

とにかく

山を下る下る。

曲がる、曲がる。

やっと、標識看板が見えた。

定光院まであと100m。

定光院、到着。

寛元元年(1243年)から建長6年(1254年)まで、日蓮宗の宗祖である日蓮がこの地を拠点として修行した。
立正安國。

大正14年(1925年)に造立された日蓮上人像。

右側のコンクリート造りの建物は、研修道場として使用されているようだ。

本堂前には日蓮上人が使用したとされる手水鉢がある。

手水鉢の前の池には

多くの鯉が放たれていた。

帰路。

帰りがけ、どこかのテレビ局が取材に来ていた。

あ~あ、疲れた。
いろはすシャインマスカット。

ああ、えらかった。
横川地区の一番端の定光院。
あんまり遠かったのでGoogleマップで確認したら、元三大師堂から直線距離にしてどう見積もっても300mほど。
比叡山のお坊さんはえらい。
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