長久手古戦場公園
- 2021/10/25
- 22:51
愛知県長久手市のトヨタ博物館を出た後、長久手の古戦場公園を目指した。

朝から一日で、名古屋モーニング、桶狭間古戦場、坂角本店、トヨタ会館、トヨタ博物館の行程はきつかったか。

着いた時には、17時前になっていた。

長久手古戦場。

国史跡 長久手古戦場 勝入塚(しょうにゅうづか)。
池田恒興(1536~84、庄三郎、信輝、勝入斎)の戦死の場所と伝えられています。
恒興は美濃(岐阜県)大垣城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は秀吉に味方しました。
この戦いの中、小牧山(小牧市)と楽田(犬山市)で家康と秀吉が対峙したとき、家康の本拠地の岡崎攻めを秀吉に進言し、自ら軍を率いて侵攻しました。
しかし、途中、岩崎城(日進市)を攻めるのに手間どり、家康軍先遣隊に追撃の機会を与えてしまいました。
結局この地で家康の本隊に会い、仏が根の戦闘で戦死しました。
恒興は、天正8年(1580)入道し、勝入斎と名乗りました。塚名はこの法名にちなむものです。
長久手市教育委員会

勝入池田公戦死の塚。
名古屋ツアーから帰ってきて、NHK大河ドラマ 信長(KING OF ZIPANGU)を見ているが、池田恒興とは、幼少の頃から信長の小姓として織田氏に仕えた織田家重臣やな。
ドラマの中では、的場浩司が演じていた。
ここで戦死した後、家督を継いだ次男の池田輝政が姫路城を現在残る姿に大規模に修築したんやな。

長久手合戦400年を記念するために開室した資料室・長久手市郷土資料室があったが、閉まっていた。。

長久手古戦場公園案内図。

愛知県指定無形民俗文化財 長久手の棒の手。

史跡案内図。

史跡 長久手古戦場。

聞くところによると、天正12年(1584年)4月9日午前10時ごろ、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営が激突。
戦闘は2時間余り続いた。
戦況は一進一退の攻防が続いたが、前線に出て戦っていた森長可が狙撃されて討死して池田・森軍左翼が崩れ始めると、徳川軍優勢となった。
池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。
池田元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。
やがて恒興・森勢は潰滅、合戦は徳川軍の勝利に終わり、追撃したのち小幡城に引きあげた。
この日の長久手の戦いにおける羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人という。
ウィキペディア(Wikipedia)より

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