陰陽師の里
- 2021/05/31
- 23:30
兵庫県の佐用町内から江川川に沿って北上(県道240号線)し、県道524号線に入ってしばらく行くと「鑓飛橋(やりとびばし)」という見過ごしてしまいそうな小さな橋が見えてくる。

渡るとこのような三叉路に突き当たる。

右に行けば、甲大木谷 左に行けば、乙大木谷

安倍晴明塚 870m→ 道満塚宝篋印塔 ←700m

陰陽師の里 江川へようこそ
いかにも、晴明が正義で道満が悪のようなイラストだ。
そう、ここが道満と晴明の決戦の地。
矢が飛んできたと言われる橋だから「鑓飛橋(やりとびばし)」だそうだ。

道満びいきの私は、まず、左手に行った。

自家用車を止めて細い道を上っていく。

鬱蒼とした木。

奥へ行く。

道満塚宝篋印塔。
小さな案内板が見えた。
山の中で小さくても案内板が見えたら安心する。

あそこだ。

墓が無残にも倒れている。

蘆屋道満塚宝篋印塔。
蘆屋道満は、道摩法師とも呼ばれる平安時代の呪術師で、出身は播磨国岸村(現在の兵庫県加古川市西神吉町岸)といわれている(江戸時代の地誌『播磨鑑』による)。
私の住んでるところから5分もかからないところだ。

時の権力者・藤原道長を呪詛しようとした罪で都を追われた道満は、この地に流されてきたとされている。

道満宝篋印塔(どうまんづかほうきょういんとう)
■南北にわずか数百メートルを隔てて並び立つ道満塚と晴明塚。古人の崇敬の思いが伝わってくる。
芦屋道満は平安時代陰陽道の大家として安倍晴明と並び称され勢力を二分し、拮抗していたといわれるが、時の権力者・藤原道長を呪詛した咎によって、この地に流されたと伝えられる。安倍晴明との勢力争いで敗れたことを物語るものであろうか。
道満、晴明とも当時とのかかわりについて歴史的確証はないが、陰陽道家の伝承を持つこの塔は当時の信仰形態をうかがわせるものである。
なお、この宝篋印塔は寛政九年の造立銘をもち、時代の特徴をよく表し、郡内では大型に属する。
碑の側面に「寛政九丁巳(1797)七月吉祥日」とあり、両側の燈籠には「嘉永七甲寅年(1854)六月奉燈」と刻まれている。

すぐ下にあった大日如来と地蔵さん。

裏には道満堂という休憩所があった。
ここから少し離れたところにある棚田の展望台に向かった。

鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いどる。
もうちょっと上に行ってみよう。

棚田展望台の案内図。

見えた。

陰陽師の里 棚田展望台。

おかん堂。

中には、石像が二体あった。

陰陽師の里。
乙大木谷の棚田。
約1000枚の広がりを見せる棚田は、農林水産省の「日本の棚田百選」に認定されているほどだ。

確かに、これだけ棚田が立体的に見えるところは、全国的にも珍しいのではないか。

人の視線を感じたと思ったら、案山子であった。
怖い。
道満の里から離れて

晴明塚に向かう。

こちらは、駐車場が整備されていて、晴明の顔出しパネルもある。

陰陽師の里 江川へようこそ

陰陽師の里 甲大木谷。

従四位天文博士安倍晴明公の石柱。


ここからの眺めも最高。

なぜか牛。

晴明堂。

中には、史跡安倍晴明塚由来や

セーマン(五芒星)の魔除け札があった。

いぶし晴明塚宝篋印塔(いぶしせいめいづかほうきょういんとう)。

■この見晴らしの良い小広場に方形の壇を石垣で築き、その上に建てられている。平安時代中期の陰陽家・安倍晴明の塚と伝えられ、西方の乙大木谷の丘には、晴明と法力を争ったという同じ陰陽家の蘆屋道満塚(寛政9年(1797)再建の宝篋印塔)があり、対をなしている。
晴明の塚は、花崗岩製で本体の高さ120.4cm、上部反花座つき基壇を含めて総高133.4cm、ほぼ完全な形であり姿形も良い。笠は6段式で塔身には金剛界四仏の種子を彫るが、月輪はない。基礎は四面とも格狭間を刻み、南面した左束に「イブし」の刻印があり同地の古い地名である猪伏をあらわしている。
様式や手法から室町時代前期に造られたと思われる。
所在地 佐用町大木谷1304番地の8

陰陽師決戦の地、兵庫県佐用町の大木谷。
ふたりの天才陰陽師が戦ったとされる伝説の地だ。

下ったところには

地元の人の間では、晴明が道満の首を取ってその首を洗ったと言われる「おつけ場」があるという。
だいたいこの辺のようだが、案内板もなく詳しい場所はわからなかった。
資料によると、道満は天徳二年(958)生まれ、清明は延喜二十一年(921)生まれなので、道満のほうが37歳も若く、フィクションで描かれるような同年代のライバルというほどのことはなかったようだ。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
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