備中高松城跡
- 2021/03/15
- 04:31
備中高松城跡

最上稲荷の大鳥居に到着した。

この辺は、本能寺の変の直前、水浸しになっていたところだ。

羽柴秀吉が高松城を攻めたとき、軍師・黒田官兵衛の進言によって、ここからあのJR吉備線(別名桃太郎線)のとこら辺に堤防を築いた。

高松城水攻め史跡公園。

蛙が鼻築堤跡。
高松城跡に行ってみよう。
高松城跡公園駐車場のすぐ横にこんな表示板があった。

本丸の高さ7mに対して蛙が鼻現存築堤高8.4m。
そらあ、水没するはずや。

高松城が水没していくのを羽柴秀吉たちは、先ほどの蛙が鼻築堤から見ていた。

周りを堰き止めて梅雨の雨を待つ。

これが世にいう高松城水攻めだ。
宗治蓮。

昭和57年に岡山市が歴史公園造成計画によって沼の復元をしたとき、地下に眠っていた蓮が再び立派な花をつけたという。

本丸跡。

清水長左衛門尉宗治公首塚。

高松城水攻之図。

おっ、秀吉らが見とる。


備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城(沼城)であり、攻めるのにも足元がぬかるんで攻めにくかった。

低湿地にある沼城という本来なら城攻めを困難にさせるはずの利点を逆手に取った奇策であったといえる。

資料館があったので行ってみた。

高松城跡公園資料館。

中には所狭しと資料が並んでいる。

清水宗治公像。

高松城水攻めイメージ模型。

これを見れば、一目瞭然だ。
辞世の句。

「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」 清水宗治

二階。

史跡 清水宗治公自刃之跡にも行ってみた。

清水宗治公自刃の地。
清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じ、身なりを整えた。
その後、宗治ら4人は秀吉から差し向けられた小舟に乗って秀吉の本陣まで漕ぎ、杯を交わして自刃をした。

主君・毛利氏への忠義と城下の兵と家族五千の助命のために潔く切腹し、敵将秀吉までもが「宗治は武士の鑑である」と絶賛したと言われている。

高松山妙玄寺。

歴代住職により供養がなされている。

こうやぶ遺跡。

城中から舟を漕ぎ出そうとした宗治公を追い「先に三途の川でお待ちします」と刺し違えた家来の七郎次郎と与十郎が殉死した場所。

美味しいパンも喉に詰まる。

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