国立療養所長島愛生園
- 2021/03/28
- 21:52
国立療養所長島愛生園(岡山県瀬戸内市)。

去年、新型コロナウイルス感染症が発生して、感染者が差別される状況を見て、ずっと行きたいと思っていたところだ。

新型コロナウイルス感染症とハンセン病との共通点。

それは、どちらも感染病ということと誹謗中傷などによる差別が起こることだ。
長島愛生園歴史館に到着。
ツアーの人たちと合流して、医学展示室で職員の方の話を聞く。

ハンセン病とは、らい菌によって皮膚や末梢神経が侵される感染症で、顔面や手足など目につきやすいところに後遺症が目立つので世界各地で恐れられ不治の病とされてきた。
一般に、感染力が弱く潜伏期間が長い。
しかし、一旦発症すると、手足に奇形が残ったり、顔面が鱗状になったり瘤ができたり目や口が開きっぱなしなることがあったそうだ。
明治頃のハンセン病患者(当時は、らい病患者)は、家族や親せきに迷惑が掛からないようにと「浮浪らい」といって自分の家を出てお遍路や物貰いで各地を浮浪していた。
ここらへんのことは、松本清張の長編小説・砂の器にも出てくる 。
1907年(明治40年)の「癩予防ニ関スル件」により、ハンセン病患者は全国に作られた療養所に強制的に隔離されるという隔離政策がとられる。
その後、1931年(昭和6年)の「癩予防法」への改正でより強化された。
これに輪をかけたのが、県内からハンセン病患者の放浪・在宅をなくそうという「無らい県運動」だった。
県民は、ハンセン病と疑わしき人を探し出して、保健所・役所・警察に通報し、患者は強制的に療養所に送り込まれた。
この運動によって、「ハンセン病は恐ろしい伝染病」「ハンセン病患者は地域社会に脅威をもたらす存在」といった誤った知識がますます浸透したのである。

一方、ハンセン病の特効薬プロミンが、1940年代に開発され、1950年代にはハンセン病は投薬と通院治療で治る「普通」の病気になっていた。
その時点で世界の国々では隔離政策が廃止されたが、日本では何の科学的根拠もない隔離政策がさらに「らい予防法」が廃止された1996年(平成8年)まで続くのである。
1953年(昭和28年)、「癩予防法」は「らい予防法」として改正されたが、入所規定はあるが退所規定は設けられていないというザル法。
つまり、法律が改正されても、ハンセン病患者は一旦療養所に収容されると一生そこから出ることが出来なかったのだ。
昭和30年前後から徐々に規制が緩和され、病気が治って自主的に退所する人たちも出てきたが、彼らは療養所に入所する際に社会や家族と断絶させられており、療養所の外では頼る人はなく救いの手を差し伸べる人も受け皿もなかった。
そのような状況の中で、生活苦で体を壊したり病気を再発させたりして、やむなく療養所に戻る人も少なくなかったそうだ。

常設展示室。
昭和30年代の長島愛生園。

光と陰の軌跡 Ⅰ

1930年(昭和5年)、長島愛生園開園。
無らい県運動、収容。

光と陰の軌跡 Ⅱ

岡山県立邑久高等学校 新良田教室。

校歌と校旗。
ハンセン病入所者のための全国で唯一の高校。

1996年(平成8年)、らい予防法廃止。
1998年(平成10年)、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟。

2001年(平成13年)、熊本地裁で原告勝訴の判決が下る。
この判決後、やっと、国は入所者たちにおわびし、新たに補償を行う法律を作り、入所者や社会復帰者たちの名誉回復、社会復帰支援及びハンセン病問題の啓発活動等に取り組んでいくことになるのである。

盲導鈴。

青い鳥楽団。

隣のギャラリーに入ってみる。

入所者が作った備前焼や

絵画作品も展示してある。

二階。

二階展示室。

第二映像室。

入所者の証言映像と関連映像を試聴できる。
外へ出て裏の浜辺に向かう。
収容桟橋。

入所者の多くは、この浜辺に船で送って来られ上陸した。
収容所(回春寮)。

収容される前に、ゴザの上に所持品を全て並べさせられ、園が禁止した物品(現金、米、懐中電灯、カメラ等)は取り上げられた。

没収を免れた所持品は、来ていた衣服とともにホルマリン消毒される。
ここが、悪名高き消毒風呂。

収容された入所者は、クレゾールの入ったこの風呂に入れられ全身を消毒された。

没収した現金は園の保管金として通帳に記載され、代わりに園内のみで使用できる園内通用票と呼ばれるブリキの貨幣を渡された。

体の検診、病歴確認、その他の入所手続きが済むまで約1週間ここですごした。

監房と納骨堂に向かう。

放送設備。
ふだんは、NHKとなぜかABCラジオがかかっているとか。
監房。

風紀を乱した者、逃走または逃走しようとした者、秩序を乱しまたは害そうとした者を中心に収監した。
埋もれているが、世界遺産登録を目指している長島愛生園は、復元しようと考えている。
納骨堂。

入所者は、亡くなっても決して故郷の父や母のお墓に葬られることはなかった。
全員で黙祷。

水子供養碑。

歌人・明石海人 (あかしかいじん)が入所していた目白寮跡。
長島愛生園を後にした。

この橋が人間回復の橋だと思っていたが、後で調べると邑久長島大橋が人間回復の橋だった。

食欲がなかったが、急に食欲がわいてきた。

岡山のパンを食べながら考えた。
新型コロナウイルスの感染者が確認されるとネットなどで感染者やその周囲の人びとへのに対する不当な攻撃がみられる。
この現状は、ハンセン病の元患者らが受けた差別と重なる。
一番怖いのは、病気よりも人間の心なのではないだろうか。
厚生労働省「ハンセン病のむこう側」参考文献
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