松尾芭蕉
- 2020/12/29
- 23:57
ようこそ伊賀へ

伊賀は、忍者の里、芭蕉の里。
松尾芭蕉の生家に寄ってみた。

史跡 芭蕉翁誕生の地。

11月28日現在、修理中であった。

松尾芭蕉さんは、地元でも愛されているようでよかった。

竹藪。

芭蕉翁記念館(ばしょうおうきねんかん)。
芭蕉翁記念館は、三重県伊賀市の上野公園(伊賀上野城)内にある伊賀市立の松尾芭蕉に関する記念館。

昭和34年(1959)神部滿之助氏の篤志寄付により俳聖芭蕉翁を顕彰する事業のひとつとして建てられた。
館内の芭蕉文庫には翁の真蹟をはじめ近世から現代に至る連歌俳諧に関する資料等が数多く保存されている。
館内には芭蕉の展示品が色々あるが、写真撮影は禁止。
ロビーの写真を撮った。

芭蕉翁像。

隠密説
45歳の芭蕉による『おくのほそ道』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、一日十数里もの山谷跋渉であった。
これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードである。
これに18歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた。
また、この日程も非常に異様である。
黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の前に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過している。
この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっていたためだとされている。
弟子・河合曾良の書いた『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されているし、『奥の細道』にて往訪した仙台藩、庄内藩、加賀藩は古土法よる煙硝(火薬)の産地で有ることなどから隠密説が生じたと考えられる。

装束。

草履。

おくのほそ道
西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。
下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。
夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):岩手県平泉町
閑さや岩にしみ入る蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県・立石寺
五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町
荒海や佐渡によこたふ天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ):新潟県出雲崎町
芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2,400km)の旅を終えた。
その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。
12月には京都に入り、年末は近江 義仲寺の無名庵で過ごした。
芭蕉翁紀行足跡図。

明石より西には行ってないようだ。

古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと)

投句箱。

芭蕉翁と伊賀市。

伊賀公園内にある俳聖殿。

昭和17年(1942)、松尾芭蕉の生誕三百年を記念して、故川崎克氏により上野公園に建立された。

設計は築地本願寺などを設計した伊東忠太博士で、上の丸い屋根は旅笠、木額「俳聖殿」が顔、下の八角形の庇は簑と衣装、それを支える柱は翁の杖として、芭蕉翁の旅姿をイメージさせる独特の形となっている。

平成22年(2010)12月24日に国重要文化財(建造物)の指定を受けている。
忍者せんべい。

パリッとはじける香ばしい味わい 昔ながらの風味豊かな米菓。

なんか一句詠んでみたいが、何も浮かばん。
今年も一年間、らっちもない拙ブログを読んでいただき、ありがとうございました。
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