柳生十兵衛ゆかりの地
- 2020/11/29
- 03:54
柳の森。

柳の森は、柳生の地名の元になった場所で、大昔、ここに誰かが杖を立てておいたところ、やがてそれが柳の大木となりそこから柳生という地名になったという伝説の場所で、「柳の森」と呼ばれるようになった。
「柳生」は大化の改新の頃には「楊生郷」という字が使われていたが、南北朝時代に後醍醐天皇に味方して敗れ、建武の中興で復活して、以降、「楊生」から「柳生」に変わったと考えられている。

柳生街道。

向こうの山の中腹に見えるのが「十兵衛杉」。
この木は柳生十兵衛が植えたという伝承が残っているが、枯死してしまっているとのことで訪れなかった。
柳生と十兵衛。
そう、ここは、小説やテレビでおなじみの剣豪・柳生十兵衛の故郷なのだ。
柳生藩の旧家老屋敷。

道の西側に見える豪華な石垣。

旧柳生藩家老屋敷は、もと柳生藩財政の立て直しをした家老小山田氏の屋敷で石垣に天保12年(1841年)尾張石工が築いたと記されている。
昭和39年、作家山岡壮八氏の所有となり、昭和46年放映のNHK大河ドラマ「春の坂道」もここで構想が練られた。
昭和55年山岡壮八氏の遺志により遺族山岡賢二氏夫妻から奈良市へ寄贈され、奈良市は、昭和56年これを修復し主屋の一部に資料を展示、一般に公開した。

長屋門。
現在ここに柳生観光協会があるが、早朝過ぎて開いてなかった。。

柳生但馬守宗矩(やぎゅう むねのり)と妻お藤の顔出しパネル。
柳生但馬守宗矩は、徳川将軍家の兵法指南役で大和柳生藩初代藩主。
剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した人物。
一介の剣士の身から大名にまで出世したのは、日本の歴史上、彼ただ一人である。
柳生十兵衛三厳の父。

隣は、小山田家分家。
柳生街道をどんどん進む。

摩利支天山。

柳生十兵衛の弟・宗冬が、祀った武道の守り神である摩利支天。
祠は無いが、摩利支天の石のレリーフを2009年に復元してある。

山の麓の柳生八坂神社。

春日大社の本殿第四殿の御祭神である比売神を祀る四之宮大明神(しのみやだいみょうじん)と呼ばれる神社であったとされる。

歩を進めると

旧柳生藩陣屋跡。

今度は、柳生十兵衛三厳と柳生石舟斎宗厳の顔出しパネル。
柳生の里は、顔出しパネル好っきゃな。
十兵衛は、おじいちゃんと一緒。

寛永14年(1642年)年に柳生宗矩が3年をかけて建てた柳生藩の陣屋跡。
「柳生藩日記」によると、その坪数は1374坪(454㎡)表は竹の枝門であったと記されている。

その後、宗冬に増築整備されましたが、延享4年(1747年)の火災により全焼し、仮建築のまま明治の廃藩により姿を消した。
昭和55年6月に史跡公園として整備されている。

面白かった。
喉が渇いた。

自販機で缶コーヒーを買った。
顔を出したのは、冨岡義勇(とみおかぎゆう)。

冨岡義勇とは、大人気の漫画・アニメ『鬼滅の刃』の登場人物で眉目秀麗、冷静沈着、更には十代にして“水の呼吸”を極めた剣才を有するとされている。
主人公・竈門炭治郎にとっては、水の呼吸の“育手”である鱗滝に師事した同門の兄弟子に当たる。
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