兵庫南をぶらぶら
- 2020/11/17
- 21:04

イオン横の兵庫城跡。
清盛くん像。

兵庫区歴史花回道 清盛くん(平清盛)。

「ここ兵庫区は奈良時代より天然の良港として知られ、大和田泊と呼ばれ親しまれてきました。
平安時代には、平清盛によって経ヶ島建設などの大修築工事が行われ、日宋貿易の拠点となりました。
その後、大和田泊は兵庫津と呼ばれ勘合貿易(明)の中心舞台として国内で第一の港として賑わい、そして明治元年には兵庫港が開港され、今日の神戸港発展の基礎となりました。
「清盛がいなければ現在の兵庫の発展はなかった」と、
平清盛を地域のシンボルとしてPRすることを決め、平成17年に清盛像(きよもりくん)を製作し、ここ入江橋の傍らに設置しました。」

兵庫運河からイオンショッピングセンターをのぞむ。

ふたつめの兵庫城跡

キャナルプロムナードの中央辺りに建っているのが兵庫城跡・最初の県庁の地の碑。

天正八年(一五八○)池田倍輝と輝政父子が花熊城を攻め落とした功によって兵庫の土地を与えられてから、兵庫はそれまでの室町幕府の権力を離れ、東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田債長の手に入り、これを機会に池田氏は花熊城の遺材も加えて兵庫城を築いた。
その地点は現在の切戸町、中之島中央市場にかけて東西、南北ともだいたい一四○メートルの地域で、周囲には幅三.六メートルの堀があった。
古来兵庫は、源平の合戦、湊川合戦以来たびたび大きな合戦があって、そのつどひどい戦災を受けた。
兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。
しかし、信長・秀吉による全国統-がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
兵庫城跡は江戸時代に入って元和三年(一六一七)尼崎藩領となって、藩の陣屋となり、 明和六年(一七六九)幕府領となってからは大坂奉行所に所属して、与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。
新政府は慶応四年(一八六八年同年九月八日明治改元)一月二十二日にはこの城跡の一部に兵庫鎮台を設けたが、二月二日に兵庫裁判所と名が変わり、五月二十三日にまた「兵庫県庁」と改められた。つまりここが最初の兵庫県庁である。
その後県庁は同年九月十八日、今の紳戸地方裁判所の場所(中央区橘通)に新築移転、 さらに明治六年五月現在地(中央区下山手通5)に移転した。
明治七年(一八七四)新川運河の開削が行われ、城跡の中心地はほとんど川敷になってしまった。
兵庫県 神戸市 岡方協議会

新川運河キャナルプロムナード。

キャナルプロムナードは新川運河沿いの約300mほどを遊歩道として整備された市民の憩いの場になっている。
開削後100年以上の歴史を持つ日本最大級の兵庫運河・新川運河に設置されたキャナルプロムナード。
兵庫津絵図(安政6年)

おほわだはし。

反対側に曲がると住吉神社がある。

琵琶塚
清盛塚と小道をはさんで北西に平面形が琵琶の形をした塚があり、琵琶塚と呼ばれ、江戸時代から琵琶の名手・平経正の墓と信じられていました。
平経正は清盛の弟経盛の長男で敦盛の兄にあたります。
明治35年(1902年)有志により琵琶塚の碑が建てられましたが、大正時代の道路拡張の際に、清盛塚とともに現在地に移転されました。
平成23年12月
神戸市教育委員会 岡方協議会

平清盛像。

1286年に造立された十三重の石塔。

史蹟 清盛塚。
永年、平清盛の墳墓として伝えられてきたが、大正12年の調査で墳墓ではないことが判明し、近年の研究では清盛の供養塔であるとの説が有力となっている。

日本三大仏のひとつとも言われている兵庫大仏。
奈良大仏、鎌倉大仏は不動だが、三番目は言うたもん勝ち状態である。

延暦24年(805年)最澄により開創され、仁安3年(1168)には平清盛公が出家した能福寺。

古代大輪田泊の石椋(こだいおおわだのとまりのいわくら)。

「この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4トンの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。
当時は平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。
その後、この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、平成15年確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から平安時代の中頃の大溝と建物の一部が発見されました。
このことより石材が発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田の泊の石椋の石材であったと推定されます。
石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられます。
その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、松杭で補強し、堤を構築していたものと推定されます。
大輪田の泊は、平安時代のはじめに律令国家の菅理のもとに造営された泊(港)です。
当時、物資輸送や外交航路として重要視されていた瀬戸内海の航路と泊の整備が進められていました。
当時の史料には泊の運営管理を行う官舎や石椋等の港湾設備が整備され、中央政府から派遣された造大輪田船瀬(ぞうおおわだふなせ)(泊)使が泊の造営や修築にあたり、修築後は国司(こくし)が運営管理を行っていた様子が記されています。
また、承和3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新の文化や情報を取り入れるための遣唐使船が暴風雨を避けるために寄港していることから、このころには大型外洋船の寄港地としても整備されていたことが窺えます。
平成17年3月 神戸市教育委員会 兵庫区役所

休憩しよ。

ミニチョコパフェ。
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