戦国ゆかりの地
- 2020/10/11
- 04:05

福井県敦賀市の日本海さかな街島屋で買ったお土産をいただきながら、戦国ゆかりの地を回顧している。

島屋のささ漬昆布〆。

小鯛ささ漬。
昔からの福井・若狭地方の名産品。

三枚おろしにしたレンコ鯛の身を、塩と米酢で絶妙に調味し杉樽にぎっしりと詰めている。
吉田の杉樽が魚から余分な水分を吸収し、魚にはその杉樽のほのかな香りがうつる。
このお店のささ漬は、塩をする際、職人が振り塩をしているので、身に透明感があり、お刺身感覚で食べれた。
そのレンコ鯛がとれる敦賀湾を一望する小高い山にある金ヶ崎城跡。

1570年(元亀元年)4月、朝倉義景討伐のため京都を発した織田信長は、途中で徳川家康と合流し金ヶ崎城を攻めた。
尾根伝いの手筒山城も落とし越前に攻め入ろうとしたとき、織田信長の妹で、近江の浅井長政の妻・お市の方より陣中見舞いとして両方を紐で結んだ袋に小豆を入れたものが届く。
この袋が意味するもの、袋のネズミ、つまり、挟み撃ち。
その事に気が付いた織田信長は即刻、撤退を決意する。
金ヶ崎の退き口(のきくち)とも、金ヶ崎崩れとも呼ばれる織田信長の撤退作戦は見事に成功した。

それにしても、夫・浅井長政の寝返りを兄・織田信長に直接言えなかったお市の方と、届いたもので寝返りと悟った織田信長は見事だ。

明智光秀は、豊臣秀吉とともに殿(しんがり)をつとめたといわれる。

金ヶ崎の退き口から遡ること230年、1336年(延元元年)10月13日。

新田義貞と弟の脇屋義助(南朝方)は、後醍醐天皇の二人の皇子・恒良親王(つねよししんのう)と尊良親王(たかながしんのう)と公家の洞院実世らを伴って越前国金ヶ崎城に入る。
新田義貞の入城直後、越前国守護斯波高経(北朝方)は金ヶ崎城を包囲。
斯波高経は、守りの堅い天然の要害・金ヶ崎城を攻めあぐね兵糧攻めを行う。
1337年(延元2年/建武4年)、足利尊氏(北朝方)は、高師泰(こうのもろやす)を総大将に各国の守護を援軍として派遣し金ヶ崎城を厳しく攻め立てた。
兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、3月6日ついに落城する。
尊良親王・新田義顕は自害し、恒良親王は北朝方に捕縛された。
尊良親王御年27歳、新田義顕18歳であったと伝えられる。

尊良親王が、自刃したと言われる場所

尊良親王御陵墓見込地。
尊良親王を御祭神とする金崎宮。

そのほかにも、NHK大河ドラマ「功名が辻~山内一豊の妻」の原作「功名が辻」の戦場という話の中にも金ヶ崎城が登場する。
律儀一筋のさしたる取り柄も功名もない男、山内伊右衛門(一豊)が信長・秀吉・家康三代に仕え、戦国を生き抜き土佐一国24万石の大名になった陰には妻の千代の類まれなる政治感覚と夫を信じぬく愛があったといわれている。
そんな出世物語を描いたのがこの「功名が辻」。
山内一豊は、朝倉氏攻めの「金ヶ崎の戦い」で敵の矢を受け左眥(まなじり・目じり)から右奥歯に貫通する深手を負いながらも、朝倉軍の大剛三段崎勘右衛門を討ち取った。
2002年に放送された、NHK大河ドラマ「利家とまつ」の原作、利家とまつの比叡山焼き打ち。
織田信長や豊臣秀吉に仕え、越前・能登・加賀と移りながら加賀百万石の礎を築いていき、同時代の信長、秀吉、家康のようにトップの座につくのではなく、常に彼ら主君を支え続け、ナンバー2の座にいた前田利家。
律儀・実直・誠実・・・そんな利家がまつと一緒に運を切り開いていくという夫婦の波乱の物語を描いたのが「利家とまつ」。
調略や裏切りがはびこっていた戦国時代、こんな時代にあって律儀・誠実を貫いた前田利家と山内一豊。
どちらも好きな戦国武将だ。

戦国武将と女性たち。


蟹味噌。

濃厚な蟹味噌の味が楽しめる。
曹洞宗 永賞寺。

戦国武将、敦賀城主大谷吉継の菩提寺である。

大谷吉継の供養塔と伝わる九重塔。


かにみそ豆腐。

国内産の紅ズワイ蟹のかにみそを主原料に鶏卵で固めてお豆腐に仕上げた逸品!
口に入れた直後は卵豆腐。
ところが、あとくちは口の中いっぱいにかにみその風味が広がる。
こちらは、益田山眞願寺。

大谷吉継の居城だった敦賀城の乾門付近とされ、境内には敦賀城の礎石と石碑が建立されている。

大谷吉継の逸話。
〇吉継が生まれる前、両親が子供が出来ないことに嘆き悲しんでおり、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。
そこで神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という。 花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」
〇天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。
この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み干した。(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされる。)
しかも気軽に話しかけてきた。
その事にいたく感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。
〇吉継は当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(ハンセン病)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていたとされるが、江戸中期頃までの逸話集にはこの描写は存在しない。
「関ケ原合戦誌記」「関ケ原軍記大成」などの軍記がこのイメージを広めたようである。
ただし、目を病んでいたのは確かなようで、病が重篤化したと推定される文禄3年10月朔日付けの直江兼続宛書状の追伸で、目の病のため花押ではなく印判を用いたことへの断りを述べている。
〇慶長5年(1600年)諸大名の反対を押し切って会津征伐を決断した家康を「まさに天下の主ともなる人だけのことはある」と高く評価している。 「改訂後三河風土記」
〇慶長5年(1600年)会津征伐に赴く際、近江佐和山城に立ち寄って石田三成から家康に対して挙兵に及ぶので共にしてほしいと誘われたときも、家康と三成の石高・兵力・物量の差から軍事経験の差、器量の差などを評して到底家康に勝てるわけがないと諌めている。 池内昭一「大谷刑部と徳川家康」
〇石田三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している。
その理由としてどちらも同世代であり、出身も同じ近江国だったためという。
また秀吉は三成・吉継を「計数の才」に長けた奉行として重用しており、一緒に行動する機会が多かったことから友情を培ったのではないかといわれている。 小和田哲男「大谷刑部と石田三成」
〇関ヶ原の挙兵の直前、三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。
ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したという。
本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに言い合える仲であったことがわかる。
他にも「(三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」と忠告している。 花ヶ前盛明 2000
〇自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん(三年の間に必ずや祟ってやる)。」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に狂乱して死亡に至ったという噂がある。 「慶長軍記」「関東軍記大成」
本当は、徳川家康との仲も悪くなかったのに、石田三成との友情から西軍についたとされる大谷刑部。
調略や裏切りのはびこった時代に義を貫いた洞察力のある大谷吉継公。

大谷吉継も好きな武将のひとり。
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