一乗谷朝倉氏遺跡
- 2020/10/02
- 04:55
「麒麟がくる」が好きすぎて、ついに一乗谷朝倉氏遺跡にもやってきてしまった。

ロケ地MAP。

一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡。

一乗谷川を渡る。

明智光秀は、ここで足利義昭や細川藤孝と顔を合わせたのかもしれない。
室町幕府第15代(最後の)将軍・足利義昭が冠を被った場所ともいわれている。

一乗谷は東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された。

朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門(向唐門)。
朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わる。
門表には朝倉家の三ッ木瓜の紋が刻まれている。

朝倉館跡。


五代義景公墓所。

1576年(天正4年)に村民が建てた小祠の場所に、1663年(寛文3年)、福井藩主松平光通が墓塔を建立した。
特別名勝一乗谷朝倉氏庭園。

朝倉館跡庭園(特別名勝)、湯殿跡庭園(特別名勝)、諏訪館跡庭園(特別名勝)、南陽寺跡庭園(特別名勝)の4つの日本庭園は、写真を撮り忘れていた。

城跡。

さっきの駐車場側に復原された町並が再現されているらしい。
行ってみよう。

朝倉氏および家臣の居館からなる城下町。

武家屋敷。


武家屋敷。

南北を城戸に囲まれた約1.7キロメートルの谷間に形成されていた町並を復原。

ただでさえ狭いのに建屋の中に井戸がある。

そのかわり、お手洗いは外。

うん、これは?


このお家は、たぶん金持ち。

道路の両面に立ち並ぶ、日本有数の城下町。

現在、復原町並内に10軒の町屋が復元され、裏庭、井戸、厠なども再現されている。

かめ。

侍屋敷跡
朝倉館から一乗谷川を隔てた場所には周囲に土塁をめぐらした大屋敷が立ち並んでいた。

復原町並として復元整備されている場所で、それらのうち一軒を史料等を参考に、30坪の主殿を中心に門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠まですべてが再現されている。


町屋
小規模な建物が細く並んでいた。

中を覗いたろ。
人口密度が相当高い。

あっ!

誰か覗いとる。
怖い怖い!

越前朝倉夢舞台。

コロナ禍がなければ、今頃大河ドラマで沸きあがってて、ここで毎日イベントが行われていたんやろな。


綺麗な傘と風鈴の飾りつけ。

端っこまで来た。

唐門・ガイダンス 館跡 北出口
通常、城下町と言えば発展しているのに、なぜ、戦国時代の遺跡のような扱いになってしまったのだろう?
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した朝倉義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。
翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
この戦の功績により織田信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。
しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策した。
1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆勢が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた(越前一向一揆)。
信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
こういうことである。

一乗谷城の幟。

メガネで作った鎧とお姫様。

実像の戦国城下町。

なぜか、明智光秀、柴田勝家、お市の方。
喉が渇いた。

福井限定 福井産しょうが100% 一乗谷ジンジャーエール。

美味しかった。
福井市宣伝部長朝倉ゆめまる氏がいう。
この商品は、一乗谷朝倉氏遺跡の新たなお土産として「朝倉氏遺跡保存協会」とJA福井市女性部「ジャンジャーガールズ」が共同開発しました。福井の豊かな土と水、そして我が子のように精一杯の愛情を込めて大事に育てられた生姜。ひとつひとつ丁寧にすりおろすことで生まれる豊かな香り、力強い味わいのなかにも優しさが凝縮されたジンジャーエールです。
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