慶長5年の9月15日は関ヶ原の合戦の日
- 2020/09/15
- 11:14
慶長5年9月15日。

関ケ原の合戦開戦&終戦の日だ。

関ケ原の合戦といえば、西軍の「石田三成」と東軍の「徳川家康」をそれぞれ総大将にして戦った天下を分けた戦。
午前5時頃から双方睨み合っていたが、午前8時頃、東軍「井伊直政」の軍勢と

「松平忠吉」の軍勢が攻撃を仕掛ける。

これに気づいた「福島正則」の軍勢が、発砲。

西軍の「宇喜多秀家」の軍勢が受けてたって戦闘開始となった。

福島正則軍には槍の名手「可児才蔵」が

宇喜多秀家軍にも「明石全登」という勇将がいた。

石田三成の本隊に、東軍の「黒田長政」「細川忠興」「加藤嘉明」などの部隊が攻撃を開始する。

それぞれ石田三成に恨みを抱いていた人たちだったが、石田三成本陣の前には「島左近」が立ち塞がった。
9時頃、その島左近が、迂回していた黒田隊の鉄砲部隊の狙撃により負傷。

そこで石田三成は、本陣の近くの「島津義弘」の部隊に攻撃を依頼。
島津軍の兵の強さは日本中に轟いていたが、「まだその時ではない」として応じなかった。

島津軍 に要請を蹴られた石田三成は、未だに動かない毛利軍に進軍を要請。

この軍団は西軍の大将「毛利輝元」が派遣した部隊。
進軍の要請を受けて進もうとしたが、毛利軍にいた「吉川広家」の部隊が突然反逆。

命令に従わない。
これにより毛利軍の本隊は、吉川広家軍が邪魔で進軍できなくなる。

「長宗我部盛親」。
石田三成の盟友の一人「安国寺恵瓊」も、これによって行動不可に陥る。

同士討ちを避けたい毛利軍の大将「毛利秀元」は、再三の出陣要請をかける。

石田三成、徳川家康双方ともが固唾を呑んで見守ったのが、松尾山の小早川の進退である。
開戦から3時間以上経過しても小早川は動かなかった。
石田三成が、出撃の狼煙を上げても動かない。
一方の徳川家康も、戦前に小早川秀秋から寝返りの約束を受けておりいつ寝返るのか待ちかねていた。
徳川家康は、一向に動く気配を見せない小早川陣に向かっての一斉射撃を下命する。

小早川秀秋は、東軍から鉄砲を撃たれたのだから西軍に味方しそうなものだが、徳川家康が怒っているとビビった小早川はあわてて寝返りの準備を始める。

この一斉射撃を機に、11時頃、小早川秀秋は、ついに1万人以上の軍勢を率いて寝返ることを決意する。

小早川軍は、松尾山を下り、中山道沿いの「大谷吉継」軍の攻撃に入った。
ところが、石田三成の盟友「大谷吉継」はこれを予測していた。
彼は小早川秀秋や多少の西軍の武将が寝返る事は薄々わかっていたようで、最初から小早川秀秋が寝返った時にそれを抑えられる位置に布陣していた。
そのため小早川軍は、一旦はこれに迎撃され押し戻される。
しかし大谷吉継の大きな誤算はこの後だった。
彼と共に小早川秀秋を抑えられる位置にいた西軍・「赤座直保」、「小川祐忠」、「朽木元綱」、「脇坂安治」の各軍までもが続々と東軍に寝返ってしまったのだ。
奮戦むなしく大谷軍は全滅。
「大谷吉継」も、自害して果てた。

首は家臣の「湯浅五助」に命じて、地中深く埋めさせたとされる。
この大谷軍の壊滅に連座して、その左側の宇喜多軍も総崩れ。
開戦早々から敗走傾向にあった「小西行長」軍も本格的に敗走し始めた。

「宇喜多秀家」は、小早川軍に馬を向け、「金吾め(秀秋)と刺し違える」と憤激していたが、明石全登が何とか抑え退却させたという。

黒田、細川などの軍と善戦していた石田三成軍も、ついにほぼ壊滅状態になった。

午後1時頃、こうして、残された石田三成の本陣も徳川軍の総攻撃の前に、ついに壊滅。

午後2時頃、島津軍も最後まで善戦していたが西軍が崩壊したのを見て撤退を決意。

後ろに下がるのではなく、前面の敵に突っ込んで突き抜ける「敵中突破」を開始した。

開戦から約半日。
様々な出来事があった日本最大の合戦「関ヶ原の合戦」は、東軍勝利で決着となった。

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