明智光秀ゆかりの地を巡る
- 2020/09/14
- 04:57
明智光秀ゆかりの地を巡る

思いつきで出かけた滋賀県ツアー2日目。

今日は、どこ行こう。
家を出るときには、2日目は、滋賀県からおさらばして京都府の亀岡市と福知山市の明智光秀ドラマ館に行こうと思っていた。
でも、標準レンズを忘れてきたので建物内を撮るのは難儀や。
行き先変更。
とりあえず橋の向こう側の道の駅で作戦を立て直そう。。

道の駅びわ湖大橋米プラザ。

9時から開いてる「おいしやうれしや」。

滋賀県特産品直売所「おいしやうれしや」は、地元の生産者が作った農産物を、直接お客様の手元に届けるお店。

広い店内には、地元の生産者が作った新鮮な農水産物や加工品が売っている。
明智光秀ゆかりの地を巡ることにした。
坂本城址公園。

坂本城は、1571年の延暦寺焼き打ち直後、織田信長の命により明智光秀が琵琶湖岸に築城。
安土城に次いで絢爛豪華な城であったといわれるが、1582年の本能寺の変後、羽柴秀吉軍の攻撃により落城した。

公園内には、明智光秀像が建っている。

明智光秀公 偲んで街に元気を! 下阪本街おこしプロジェクト 大河ドラマ「麒麟がくる」
大河ドラマ放映中は、大河ドラマ登場人物のゆかりの地が賑やかになるのはいつのときもどこも同じ。
私の住んでいる兵庫県加古川市志方町も2014年の「軍師官兵衛」放映時には、沸きに沸いたものだ。
官兵衛の正室・光(てる)の出生が播磨国志方城主櫛橋家だったからだ。

明智光秀からちょっと離れて、神様の降臨する木・七本柳。

毎年4月14日に、ここから神輿を船に乗せる船渡御、日吉大社の山王祭が行われる。

二つ目の坂本城址 湖中に残る石垣見学ルート。

湖水が少なければ、この辺りの湖中にお城の石垣跡が見えるらしい。

三つ目の坂本城址。
茶色い石碑には、以下のように書いてあった。
「坂本城本丸跡
坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。
大津市教育委員会」

見るからに私有地の中にある「明智塚」。

明智塚
この地は明智光秀の坂本城の城内であると推定されている
塚の由来に就いては坂本城落城の際に光秀の脇差名刀の郷義弘並宝器物を埋めた跡であり明智一族の墓所であると傳へられている
明智族の悲運も遭って鎮魂のため 毎年六月十五日祭記
平成十四年十一月 地主 村田

東南寺。

四つ目の坂本城址。
案内には、坂本城跡となっている。
元亀二年(1571)九月の山門(比叡山延暦寺)焼き打ち直後、織田信長は明智光秀に滋賀郡支配を命じるとともに、浜坂本(三津浜)に水城を築かせました。日本最古級の天主がそびえていた坂本城について、当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、天正四年(1576)に築城された信長の安土城に次いで豪壮華麗な城と賞賛しています。
坂本城築城の目的は、山門の監視ばかりでなく、彦根の佐和山城とともに、信長の領国美濃と京都とのルートの確保、水運の重要な拠点などがあげられます。
この城は、天正十年六月の山崎の合戦ののち焼失しますが、丹羽長秀によって再建され、同十四年頃、城主浅野長吉の時に大津城に移るまでこの地にありました。
昭和五十四年(1979)の「宇城畔」の発掘調査では、厚い焼土や城の施設の一部とみられる建物の礎石や石組の井戸・土坑・溝・石垣の基礎石などが見つかっています。
さあ、最後は明智左馬之助が馬で琵琶湖を渡ったという場所に行ってみよう。

それは、大津市民会館と滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールの間にあったが自動車を止めれなかった。
「明智左馬助の湖水渡り」伝説。
道の駅で買ったお土産。


鮒寿司とわかさぎの山椒煮。

近江牛の焼きカレーパン。
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