関ヶ原ウォーランド
- 2020/07/14
- 23:14
◯◯ランドといえば、普通、東京ディズニーランドを初め、よみうりランド、宝塚ファミリーランド、奈良健康ランドのようなレジャー施設を想起するが、合戦場を舞台にしたランド・関ヶ原ウォーランド。

天下分け目の大決戦場、関ヶ原には、一度行きたいと思っておりました。

入口に座っている人にチケットを渡しかけると、「私、私、私に渡し!」と係の人が駆け寄ってきてくれました。
なんや、甲冑だけやったんか。

ここ関ヶ原ウォーランドは、関ケ原の合戦を再現したテーマパーク型資料館です。
約30,000㎡の敷地内に、極彩色した実物大のコンクリート像を配置して、旗差物や陣幕等も忠実に再現してあります。

まずは、関ケ原の合戦を年表などの資料で勉強します。

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、戦国時代後期の西暦1600年、美濃の関ヶ原で、石田三成を中心とする「西軍」と徳川家康を大将とする「東軍」とが行なった合戦。

のちのち、勝利した徳川家が260年も続くことになる江戸時代を築いたため「天下分け目の合戦」ともいわれております。
並行して行われている風鈴まつり。

一服の清涼剤。


馬で会場内をまわってみます(うそうそ、そんなサービスはない)。
慶長5年(1600年)9月15日。
石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は総勢7万(諸説あり)が関ヶ原に陣を構え、先に石田勢が陣を構えたことからあとから関ヶ原に到着した徳川勢は圧倒的に不利な配置となっていました。
前日からの濃霧の中で対峙していていましたが、霧が晴れて来た夜明け、先鋒を任された東軍の福島正則の部隊が、西軍で最も大軍を率いていた豊臣五大老の1人宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛けたことで戦闘開始。

「武断派」福島正則。

宇喜多秀家の陣。
西軍は多くの将が様子見で戦に参加せず戦闘したのは10万人のうち3万人程でしたが、地形的有利が働いて東軍を少し押していました。
しかし、東軍の黒田長政らは、合戦が始まるだいぶ前から西軍の小早川秀秋らに戦いとなった際には東軍に寝返るよう調略していました。

さすが軍師・黒田官兵衛の息子、黒田長政。
造形作家・浅野祥雲作の等身大武将像で関ケ原合戦が史実にもとづき再現されています。
南宮山の諸隊。

この軍団は西軍の総大将とされていた「毛利輝元」が派遣した部隊。

のちに突然反逆することになる西軍・吉川広家。

毛利軍の大将「毛利秀元」。

四国・土佐の戦国大名「長宗我部盛親」。

外交僧「安国寺恵瓊」。

浅野。
錚々たるメンバーながら、ほとんど働きませんでした。

風鈴まつり。

関ケ原縁結び。

龍が姫を狙っとる。

こんなん、夜に入り込んでみると怖いんやろな。

妻が有名な山内一豊。

京極。

藤堂景虎。

鉄砲隊、打て~!


ここが、かの有名な松尾山。

西軍に味方しようか約束通り東軍に寝返るか、決め兼ねていた小早川秀秋は、関ヶ原合戦に参加せず見守ります。
そんな姿にしびれを切らした徳川家康は、昼過ぎに小早川秀秋の陣に目がけて大砲を撃ち込みました。
小心者の小早川秀秋は、徳川家康が怒っているとして、西軍を裏切って隣の大谷吉継らの陣に突撃を開始。

矢来。

戸田。

大谷大学。

大谷吉継の陣。

寝返った小早川秀秋勢に攻め込まれた大谷吉継は、自刃。
一挙に形勢が逆転しました。


しかし、関ヶ原の前線では、まだ両軍の一進一退が続いていました。



宇喜多秀家陣地。

野村。

小西行長。

島津軍。

一旦は、石田三成の進軍要請を拒否した島津義弘。
島津軍も最後まで善戦していましたが、西軍が崩壊し始めたため撤退を決意。
しかしなんと後ろに下がるのではなく、前面の敵に突っ込んで突き抜ける「敵中突破」を敢行するのです。

驚いた赤備えの井伊直政は、負傷してしまいます。


西軍の最後の砦、石田三成の陣。

笹尾山。

石田三成の旗印「大一大万大吉」。
これは、「1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味です。


開戦早々に戦闘不能になってしまった側近・島左近。

槍の後藤又兵衛。








松平。

本多。

武田信玄の亡霊。


宇喜多軍の勇将・明石全登。

あの宮本武蔵も東軍として戦ったとされています。

小早川秀秋に続いて、調略を受けていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保、吉川広家らも西軍を裏切って、続々と東軍として戦いに参加。
こうして、西軍は総崩れとなり、双方合わせて6000~8000人の戦死者を出した関ヶ原の戦いは、半日で東軍・徳川家康勢の大勝利となったのです。

福島正則部隊の槍の名手「可児才蔵」。
首級を17もあげ関ヶ原の戦いの隠れたMVPと言われています。

彼は、討ち取った敵の首を取らず、代わりに笹の葉を口にくわえさせて(切り口に刺したという説もあり)それを目印にした話が有名です。

主君に恵まれず出世も望まなかった可児才蔵に因んで、可児市では、才蔵しおがまが売られていました。

懐かしいお菓子。

あっ、ところで徳川家康はどこにおったんや?
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