遣唐使
- 2020/07/22
- 04:03

あっ、あれは何やろ?
行ってみよ。

奈良県にある国営平城宮跡歴史公園 「天平うまし館」。

どうやら、さっきのは遣唐使船やったみたい。

~中国から贈呈された日中1000余年の友好の証~

5~8世紀の東アジア情勢。

もうちょっと勉強してから見に行こか。

波濤を超えて
有名な派遣者としては阿倍仲麻呂・ 鑑真和上・吉備真備・藤原清河・多治比広成・太安万侶・山上憶良・最澄・空海といった人物が知られていますが、随行者として医師や留学生、技術者や船の操舵を行う船員らなどももちろん乗船してました。

遣唐使が唐に持って行ったものと遣唐使が唐から持って帰ってきたもの。
銀、水織絁(みずおりあしぎぬ)、美濃絁(みのあしぎぬ)、細絁・黄絁(ほそあしぎぬ・きあしぎぬ)、黄糸(きのいと)、細屯綿(ほそつみのわた)、などを持って行って大量の書物や仏教経典、陶磁器・金銀・絹製品など美術工芸品を持ち帰ったといわれています。

これが、日本が唐に派遣した使節をのせた遣唐使船。
遣唐使船を精巧に復原してあります。
中国は618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となりました。
寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となるのです。
遣唐使は約250年にわたり20回程度実施され、当時の先進国であった唐の高度な文化や制度、技術、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献しました。

乗船できるようなので乗船させていただきます。

「甲板」の上に立つと、なんか、遣唐使になったような気分。
この船に100人近くも乗っていたのか。

まず、船尾の方に行ってみます。

雑居部屋。
当時は当然ながら「個室」などはほとんどない時代であり、雑魚寝などをする過酷な船旅であったと考えられています。

船尾部分には、船が流されないように留め置くために使用される「碇」が再現されています。
碇は鉄製ではなく当時はまだ木製の碇であったと考えられており、こちらでも巨大な木の碇が再現されています。

「出発~!」
遣唐使船は、大阪住吉の住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津(大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川。通称・細井川。細井川停留場)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て、那大津(福岡県福岡市博多区)に至り大海を渡りました。

今度は、船首に行ってみます。

こちらは「賄い部屋」。
遣唐使船の正確な資料はないためあくまでも推定ではありますが、「火」を使ってお湯を沸かすなどの作業が行われていた可能性もあったとも考えられています。

帆柱(マスト)の部分には帆は張られていませんが、「網代帆」と呼ばれる「竹」を利用した昔の帆が再現され畳んだ状態で設置されています。

船尾部分には、船の進行方向をつかさどる「舵」が再現されています。
舵は数人がかりで力をこめて操作していたようで、当時の労苦が伺えます。

遣唐大使の部屋がありました。
遣唐大使の部屋は、遣唐使の中でも高貴な身分の方のみに与えられたと考えられる個室となっています。

間近で見ると、そのはっきりとした色彩もあいまって相当な迫力ある存在となっています。

大迫力!

復元と言っても、当時の正確な史料などは残されておらず、あくまでも「推定」のものとなっているそうです。
船体 全長30m・全幅9.6m・排水量300トン・積載荷重150トン
ああ、面白かった。

「はい、どうぞ。」

好きな食べ物は奈良のうまいものと自負する「せんとくん」が何やらかくれました。

イコマ製菓のレインボーラムネ。
幻のラムネと呼ばれとる貴重なもんやねんで。
(遣唐使船の部分は、「奈良まちあるき風景紀行」を参考にさせていただきました。)
スポンサーリンク
ここに広告のコードを入れる