時は、元禄15年師走半ばの14日
- 2018/12/13
- 23:46

時は、元禄15年師走半ばの14日(トントン)
江戸の夜風をふるわせて
響くは山鹿流儀の陣太鼓
しかも 一打ち二打ち三流れ
ご存知、忠臣蔵の一節 である。
元禄14年3月14日、江戸城中「松の廊下」において播州赤穂(兵庫県)五万三千五百石の殿様、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に切りつけるという刃傷沙汰があった。
浅野内匠頭は即日切腹、領地没収、かたや吉良上野介はお咎めなし。
事件を知らせるため早駕籠が播州赤穂駅へと飛んだ。

ちゃうちゃう、事件を知らせるための早駕籠が浅野の領地である赤穂藩へと飛んだ。
早駕籠に乗って赤穂に訪れたのは 早水藤左衛門と萱野三平の二人。
江戸から赤穂へは早駕籠でも通常一週間程度かかるが、使者たちは昼夜連続で駆け続け、4日半で赤穂に到着したという。
赤穂に着いて一番最初に来たとされている息継井戸。

赤穂城。

その後、1年9ヶ月をかけて吉良への討ち入りを計画。
元禄15年12月14日、ついに大石内蔵助率いる総勢四十七名は両国松坂町「吉良屋敷」へ討ち入る。

翌朝4時の暗い中、2時間の激闘の末、見事、御首を挙げた四十七士が主君の眠る高輪泉岳寺まで凱旋するという冒頭の場面に続くのだ。
もともとの刃傷沙汰の原因は浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に意地悪されたからだとされているが、その遠因は、二人が領地に持っていた塩田にあるという。
瀬戸内赤穂の浅野の塩の方が、三河の吉良の塩より、たくさんとれ品質が良く、美味しかった。

その辺の嫉妬や羨望もあり、意地悪を続けたという説もあるのだ。
私は、この説を支持したい。

この赤穂に美味しい蕎麦屋がある。
挽きたて、打ち立て、湯がきたてのお蕎麦がいただける。

かき蕎麦(ねぎ多め)と一品でかき天むすをいただいた。

大きな牡蠣がなんと八つも

播州赤穂塩ねぎ

蕎麦は十割そばにしてもらった。
赤穂義士たちは討ち入りの前このお蕎麦を食べて出陣したという。

追加のかき天むす。

海老の天むすはあるが、牡蠣の天むすはここだけだろう。

蕎麦の出汁で牡蠣汁にして食べれば格別。

ごちそうさまでした。
あこう蕎麦 衣笠




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