三木の干殺し
- 2018/06/06
- 22:26
「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思えば」

これは、別所長治(べっしょながはる)の辞世の句である。

三木城主・別所長治公と照子夫人の首塚。

今から440年前、ここ三木城で過酷な兵糧攻めがあった。

天正6年(1578年)、別所長治氏が織田信長氏に離反し毛利氏側につくと別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏がこれを支援し、情勢が一変する。

別所長治は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ方針を決定、いよいよ三木合戦が開始された。
籠城した三木城には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒など東播磨一帯から約7500人。
いわゆる諸篭り(もろごもり)というやつで、このため多くの兵糧(食料)を必要とし、これが最終的には致命傷となる。

天正8年(1580年)1月、三木城内の食料は既に底をつき「干殺し」状態が続いていた。
織田軍は三木城内の支城を攻撃、6日に長治の弟友之が守る宮ノ上砦を、11日に吉親が守る鷹尾山城を攻略、残るは本城のみとなる。
14日、別所重棟の城中への勧告により城主一族の切腹で城兵の命を助けるという条件がでる。
17日に長治一族が切腹(吉親は抗戦しようとして城兵に殺害)
長治は幼い子どもを殺め妻を自害させ、冒頭の句を詠んだあと自害したという。
長治の命と引き換えに、永い永い篭城戦が終了する。

「釜城うどん」 300円
三木城のことを別名釜城といい、うどんで三木の干殺しを再現してある。

土壁に見立てた天かす

草に見立てたねぎ

わらに見立てたきざみあげ
三木合戦の間、城内のものたちは牛馬はもちろん昆虫、草、木の皮、はては土壁の中のワラまで食べたという。
言い伝えでは、餓死していくものまで食べたとも…
三木の城内で亡くなっていった人たちは、どんだけひもじい思いをしたんやろう。
考えただけで死んでまいそうや。
地元のボランティアが展開するナメラ商店街にある「なめらかフェ」




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